UI

iPhoneのUIがとても気持ちがよく、直感的に操作できるので、情報の取得や表示にたいしてとてもワガママになってきている。

最近気付いたのだが、私は非常にUIにうるさい。UI評論家にでもなったらいいと思うくらいだ。そして、UIというのは、特に日本では、軽んじられている。たかがUI、大事なのは性能や安定性であって、UIなど素人をごまかす子供だまし、そういう発想が強く、私は職場でも不快である。

仕事が終わって、iPhoneを触る。イヤホンをつける。iPhoneはやっぱり画面が小さい。複数の画面をタイル状にならべたりできない。知りたい情報は、量としてはささやかなのである。今日の松井の成績は?何打数何安打打点がいくつ、Angelsが勝ったのかどうか。あの会社の株価はいくらだったのか。10文字にも満たないような情報だ。そんな情報であれば、空中にポップアップできないだろうか?

そう、「空中にポップアップ」。最近、ことあるごとにそれを思う。具体的な実現方法は思いつかないが、セカイカメラが、それに近いことをやっている。あれを、ゴーグルのようなものに取り付ければ、ちょっと近いが、やっぱりゴーグルを通した仮想というか、重ねられた画面ではなく、空中に文字や映像を表示させたい。手のひらをスクリーンにして映すくらいでもいい。名刺の裏でもいい。

曲順

iPhoneであるアルバムを聴いていたら曲順がおかしい。iPhoneではどうにもならないので、iTunesで並べ替えをしようと思ったが、ドラッグしてもできない。プロパティを見ると、トラック番号とディスク番号という項目があって、全曲数とディスク番号が空白になっている曲が先に並んでいたので、そこを埋めると正しい順序にならんだ。なんでこんなことになったかというと、このアルバムの一部の曲だけ先に取り込み、あとから全部を取り込んで、その後に重複した曲を削除したからである。アルバムの曲の順序は大切だ。曲間の秒数も。

adjacency

ospfの動作を確認するときによく、「ネイバーがフルになった」とか、「フルになってネイバーが確立した」とか言う。

コマンドでも show ip ospf neighborなどというのがあって、その結果 init とか full とか表示されている。

私も言っていた。「ネイバーがフルになった」「ネイバーが確立した」と。しかし、この使い方は間違っている。間違っているというのは言いすぎだとしても、不正確である。

まず、fullの状態になった関係は、adjacencyという。読み方はあえてカタカタにすると「アジェーセンシー」である。adjustのように「アジャセンシー」とは読まないようだ。

adjacencyという関係になってもneighborでもあるから、「ネイバーがフルになった」という言い方は、セーフかもしれない。しかし、「フルになったので、ネイバー関係が確立した」と言ったら、完全に間違いである。

うしてそうなるのかというと、二台のルータを対向させてOSPFを設定させた場合は常に、お互いにfullつまりadjacencyの関係になるからだ。だから、ospfが正しく設定されればfullになる、fullにならなければ正しくない、と思い込むのである。

同じリンク上に3台のOSPFルータを作ってみる。それぞれのルータに2台ずつのneigborが存在することになる。1台がDR、もう一台がBDRとなる。DRとは、すべてのneighborが adjacencyの関係になる。BDRともかな?では、4台になったら。このとき、DRでもBDRでもないルータが2台存在することになる。この2台の関係はどうなるか。neighborではある。しかし、adjacencyにはならない。つまり、show ip ospf neighborコマンドを実行した結果が、full にならないのである。(確か 2wayでとまる)そして、それでも neighborの関係なのである。

この状態を見る機会はあまり無いと思う。CCNAとかのためにOSPFを勉強した人では、一つのネットワークに4台のOSPFルータを作ることはまずないだろうから。覚えておいてほしい。状態がfullにならなくてもneighborである場合があるということを。というか、adjacencyの関係の方が特別であるということを。

OSPFのDRというのは、OSPFルータが多数存在する状況で、すべてのルータ同士で経路情報の交換をしなくてよいようにと、考えられた機能である。だから、OSPFルータ同士の関係がneighborなのか、adjacencyなのか、というのは重要な違いであり、「neighborもadjacencyも同じようなもの」ということはできない。また、よくこれらの語を「隣接」とか「近傍」とか訳す人がいるが、これくらいの語は訳さずにそのまま使うべきである。ただでさえ紛らわしい概念が翻訳することでさらに紛らわしくなる。

search API

search APIを使ってみる。

公式ページでは、userしか検索できない。

echofonではtweetや場所から検索できる。

public timelineはあまりに膨大というか速いというか混沌としている。しかし、今この瞬間に吐かれているtweetを見たい、ということはよくある。たとえば今、LAAの松井の様子を見ている人とか、何か事件があった時とか。

searchのAPIは簡単で、例によってURL形式でパラメータを渡すだけだ。結果はjsonまたはatomのいずれかを選ぶ。どちらともxmlのようなタグが付いている。

jsonはjavascriptで使うためのフォーマットのようだ。

atomというのは確か、rssみたいな用途で使われるものだと思う。いずれもテキストのカタマリだから、perlであれば自由に検索して必要なところだけ取り出せばいい。

でも、せっかくjsonとかatomのフォーマットで帰ってきているのだから、そのフォーマットを扱うやり方でスマートに取り出したい・・・。と思ったが結局得意のsplit&正規表現ですませた。

とりあえずはこれでOK。よく見たら、オフィシャルのページの横に、検索のためのテキストエリアとボタンがあった。そりゃそうだよな。というわけでだいたい最後はオフィシャルページに帰ってくる。

twitterの魅力のひとつは、公的なものと私的なものの境目が曖昧なところだ。作家や政治家が昼食に何を食べたとか、寒いとか、どこへ行ったとかカゼをひいたなどをつぶやく。かと思えばどこの誰だかわからない人が景気回復の方法を論じたり、民主党を批判したりする。

なかにはtwitterを自分のブログの更新通知に使ったり、イベントなどの告知をしたり、著作や出演番組の宣伝をしたりする人もいる。

というか、いわゆる有名人、ジャーナリスト、芸能人、作家等はそれが主目的であろう。

特にジャーナリストや作家は、自分達の仕事である文章表現を使って、無料で宣伝や広報ができるのだから、使わない手はない。しかし、ただ「無料で文章を書く」というだけなら、インターネット自体はずいぶん前からあって、自身のウェブサイト、メール、ブログ、掲示板、ミクシイなどのSNSと呼ばれるものでもよかったはずだ。そしてtwitterをやるような人はだいたいそれらも利用していた人たちだ。

でも、twitterほど大勢が利用しなかったし、twitterほど異業種・異文化の人が対等に会話できるものはなかった。

その違いは一体なんだろうか?「ミニブログ」などと言われるように140字という文字数の少なさだろうか?それよりも、followという仕組みのほうが重要なのではないだろうか。

followというのは一見なにも目新しいことのない機能に見える。ブログだったら読者になるとか、やったことはないがmixiならマイミクになるとかと同じようなものだと私も何の抵抗も無く理解した。しかし、私がtwitterを始めて誰かをfollowするまでには少し時間を要した。twitterは、自分が誰かをfollowしないと、まったく他人の発言が読めないのである。一言たりとも。

followをブログの読者のようなものだと考えていた私は、どこの誰だかわからない人をfollowすることに抵抗があった。followする人はサーチしなければならないが、その検索するキーワードも思い浮かばない。ところがtwitter利用者が増えて、購読しているブログの書き手もtwitterを話題にすることが多くなってきた。

そんなある日、誰かが私のアカウントをfollowしたことを告げるメールが届いた。そのときの私のツイートなんて、「メシ食った」くらいしかなかったはずなのに。多分、その人も適当な言葉や文字列で検索してfollowしたのだと思う。わたしはちょっと驚きつつもその人をfollowした。この、「followされたら自分もその人をfollowする」ということは、なんだか当たり前のマナーのようになっているが、私はそれは間違いではないかと思っている。

そこから、followした人がfollowしている人をfollowする、ということを繰り返したら、発言が表示され始めた。何の関係もない、誰宛かもわからない発言が雑多に表示される。なんだこれは・・・・。

しばらくしておもしろいと思い始めたのは、有名人のツイートが読めることだった。孫正義、ホリエモン、芸能人、作家・・・。「あの人もこんなことを言うのか」というギャップに驚いたり、親しみを感じたりする。総じて不満を吐き出したり泣き言を言ったり暴露したりするようなネガティブな発言が非常に少ないと感じた。これはよいことでもあるが、本音がないとか、刺激がないとか退屈だとかいうマイナスなことでもある。

最初に作ったアカウントは匿名である。アイコンも自分で適当に描いたマンガの顔である。つぶやきは当たり障りのないこと、テレビを見ながら思ったことや、どうでもいいことを誰にともなくつぶやいていた。

しかし、次第に他人のつぶやきの内容が高度というか、内容が濃いことに劣等感というか、恥ずかしさを感じ始めた。さらに多くの人が実名と顔を公表しているのも気になった。

そこで、あるとき、実名と顔を公表するアカウントを作って、それまでのアカウントは削除した。一応、このアカウントはやめて実名をさらす、と宣言した。実名にするとやはり発言内容に慎重になる。うかつなことは言えない。ますます自分の発言がつまらなくなるのを感じた。

followする人はどんどん増やして300人くらいになった。そのうち8割から9割はfollowされた。基本的に、有名人で何千何万というfollowerがいるような人以外は、だいたいfollowするとfollowし返す。

私はこれがなんだかうっとうしくなってきた。他人の発言はたくさん読みたいのだが、自分のつぶやきはあまり読まれたくない。そこで、followする人を一気に減らした。そして、followを返さないであろう人を探してfollowし始め、followされたくないもしくはfollowしていることを気付かれたくない人はfollowせずにprivateなlistに登録した。原則としてfollowするのは自分の顔をアイコンにしていて、名前を名乗っている人。ボットや企業の宣伝みたいなのは避ける。あと、やたらめったらRTしたり、あいさつばっかりしてたり、ニュースなどを引用してくる人も避ける。

というわけで、私はfollowした人が自分のことをfollowしなくても全然気にしない。むしろその方がありがたい。followされたからfollowしないと失礼だな、なんてことは思わせたくないし、思わない。そしてそれは、私のtwitterのやり方ではなく、皆がそうするべきなのではないか、それがtwitterの自由さというか、垣根の低さというか、孫正義とその辺の人が気軽に話せるよさなのではないか。

2ちゃんねるを始めたばかりの頃も、実質上誰も管理・検閲していない場に、ある秩序が存在していることに驚いたが、twitterの場合はそれよりもっと、自然な、おおらかな、それでいて有益でおもしろい場になっている。それは、ユーザーがすでにインターネットやSNSの利用に慣れてきたこともあるだろうが、やはりtwitterの仕組み自体が、うまくできているのだと思う。

いろんな人が、私と同様にtwitterの魅力、twitterの優れたところについて語っているのを見聞きしてきたが、多くの人が、有益で濃密なコミュニケーションが瞬時に広範囲に可能である、というようなことを言っていた。

しかし、わたしがtwitterに感心しているのも、求めているのも、そういうものではない。わたしは最初、twitterというのが「ゆるいつながり」だというのを聞いて、「これは2ちゃんねるの実況みたいなものだ!」とピンと来て始めたのだが、実際はゆるくなどないのでがっかりした。

しかし、始めて数ヶ月たった今では、やはりゆるいつながりになっている。自分のツイートになんの反応がなくても気にならない。というか、基本的に反応はない。反応されないようなことをつぶやいている。たまに淋しくなって特定の人あてにツイートしたりするが、その後は必ず後悔する。だいたい、ツイートというものは、follower全員が見るのである。そのようなものであるのに、特定の一人だけにあいさつの様なことをするのは、失礼と言ってもいいのではないか。

わたしはいつも2ちゃんねるとtwitterを比較する。それは非常によく似ているからだ。2ちゃんねるは1スレッド1000レスというのが絶妙だった、という話をきいたことがある。同じように、twitterでは140文字が絶妙だったとも。他の2ちゃんねるの長所は、板の種類の豊富さとかカテゴリ分けがよかったとか、書き込みが自分で削除できないこと、ほぼなんでも書ける、などがあげられた。

twitterも、140字と言う気軽に書ける文字数であることとか、APIが公開されているとかがあげられている。それらはおそらく正しい指摘であろう。しかし、本当に2ちゃんねるとtwitterが価値を持つようになった理由はただひとつ、ユーザー数が膨大だったから、これに尽きる。先ほどあげたような長所があったからユーザーが集まって膨大になったのだ、と言えるかもしれないが、twitterと同じようなサービスはたくさんある。google buzz, アメーバなう、など。2ちゃんねるだって、ただの掲示板である。まったく同じ形式の掲示板を見たことがある。しかし、いずれもユーザーが少なければ価値がない。WindowsやMS Officeも同じである。よいソフトウェアであったのは確かであろうが、それを大勢が使用してファイル等が交換可能になったこと、ここに意味がある。つまり、独占したから意味がある。独占がユーザーに利益となったのである。

twitterがアメーバなうやgoogle buzzと競い合うことは、ユーザーのためにならない。この手のものはとっかえひっかえするのが面倒だからだ。いろんなところに簡単にフィットしてしみこんで言った、それがtwitterであったのだろう。

そうそう、これが書きたかったのだが、twitterでは国境の壁が高い。異なる言語間でのコミュニケーションが難しい。私はいろんな国の言葉がTLに表示されるのがおもしろくて外国人をテキトーにfollowしてきたが、followし返されることはまずなかった。逆に、私のことをfollowする外国人もいない。これは、ツイートが短文で流れる速度も速いため、外国語をじっくり読んだり翻訳するヒマがないというのと、ツイートが形式ばらずに自由で慣用的な文句を多様するため外国人には理解しにくいからではないかと思う。

たぶんこれは日本人同士でも、話の合う・合わないが普通よりも強くでるのではないだろうか。気軽な発言は仲のよい気心のしれた人同士でしか通じない。万人に理解されるためには形式がしっかりして、普遍的なものでなければならない。私はネットでも、日常生活でも、深い仲になること、徒党を組むことが嫌いである。集団においてはのけものになって、自分の所属以外の人と仲良くすることが好きである。