Permutationは「順列」、Combinationは「組み合わせ」と訳される。
教科書では、
「a,b,c,dの4個の文字の中から、異なる3個をとって1列に並べる」
「7人の生徒から3人を選んで1列に並べる」
「男子3人、女子2人が1列に並ぶとき女子2人が隣り合うような並び方は何通りあるか」
「5人を、2つの部屋A, Bに入れる方法は何通りあるか、ただし、一人も入らない部屋があってもよいものとする」
「12色の鉛筆から5色の色鉛筆を選ぶ方法」
「正六角形の6個の頂点のうちの3個を頂点とする三角形の個数」
「男子10人、女子6人の中から、5人を選ぶとき、(1)男子3人と女子2人を選ぶ(2)男子が少なくとも1人含まれる 選び方はそれぞれ何通りか」
などという例が使われている。
これらについて、permutation, combination,和の法則、積の法則を使って計算する方法が説明される。
私は授業でそれをぼーっと聞きながら、『しらみつぶしに数えなくても、数えきれないような場合でも、こうやって計算できて便利なんだな』と思いながらも、『どんな時にこんな計算が必要になるのだろう』という疑問というか、無力感に苛まれて、真面目に勉強する気にならなかった。
それは順列組み合わせだけでなく、ベクトル、三角関数、指数関数、対数関数、数列、微分積分すべてに言えることである。
高校生になると数学はどんどん複雑になり、直観やしらみつぶしが通用しなくなってくる。
今、「ワンペア問題」を考えていて、PermutationとCombinationについてあらためて考えなおしている。
「a,b,c の3つの文字から2つを選んで並べる組み合わせはいくつあるか」
a,b
a,c
b,c
3つ。
では、a,b,c,dの4つから2つだったら?
a,b
a,c
a,d
b,c
b,d
c,d
6つ。
高校生だった私は、この手のことを考える必要性に悩まされた。
当時は単なる怠け心だとしか思わず、勉強とは、生きるとは、成長するとはそういう疑問を持たないことだと言い聞かせるものの、結局それに打ち勝てなかった。
そのころに、「人間が生きる目的は何か」ということを考えるようになったのも、哲学に興味を持ち始めたのも、無意味に思えることを考える必要性がわからなかったからなのだと、今になってみるとわかる。
「数学なんか生活に必要ない」なんて言うと、いかにもバカで怠惰なろくでもない奴のようで、私自身もそういう考えは嫌いで、勉強とは学問とは生活に必要だからするようなものではないと思ってはいたが、果たして必死に「勉強」している級友たちがそんな高尚なことを考えていたとは思えない。
むしろ彼らはそんなことを考えもせず、勉強というのは受験であり受験とは生存競争であり椅子取りゲームであると割り切って、四の五の言わずに定番問題集を解いて過去問を解きまくって、パターンを覚えて、どんな難しい問題もすべて何かのパターンにあてはめれば解ける、という生き方を選んでいただけではなかったのか。
その証拠に彼らは、授業でキェルケゴールやカントやベーコンが出てきても、国語の教科書に舞姫や伊勢物語や源氏物語や史記や論語が載っていても、その本の一部が載っているだけなのに、それらに興味を示さず、「こんなの試験に出ない」と言って、授業を聞きながら受験用の参考書の問題集を解いたりしていた。
わたしが「a, b, c をならべる組み合わせはいくつあるか」ということに興味を示さないことと、彼らが「絶望とは死に至る病である」ということに興味を示さないことにどんな違いがあるのか。どちらが怠惰だったのか。