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2005/07/26

MPLSって何? (答えなし)

MPLSって何だろう?
Multiprotocol Label Switching

わかっていること。MPLSは、IP-VPNで使用されている技術である。ラベルを付与するルータと剥離するルータが存在し、その二つのルータ間ではIPアドレスではなくラベルを見てパケットが転送される。

なぜMPLSが必要なのか?

1) 中継するルータごとにルーティングテーブルを参照すると、時間がかかるため。MPLSの目的は高速な転送=高速な通信である。

2) 論理回線を作成することにより効率的に回線を使用できる。ただしこれはMPLSだけでなくATMとかパケット交換方式の通信全般に言えることである。

ATMも論理回線を作成するときいたがMPLSはそれとどう違うのか?

cross-connectって何?

L2トンネルって何?そもそもトンネルって何?L3トンネルってあるの?

l2、l3という言葉をよく聞くが、L2は下等な通信、高速だが単純で簡単な機能しかないと考えている。実用のためにはそれをL3=ネットワーク層で制御せねばならない、それがネットワークエンジニアの仕事であり、それをおこなっているのがな「ルーター」である。ルーターのほうがスイッチより高度な機能を持つ高級な、インテリジェントな機器である・・・と。ところが最近は「L3スイッチ」という、ルーターとスイッチのアイノコみたいな機種が出てきて、しかもスイッチという名がつくにもかかわらずルーターより処理速度が速いというのである。

 インターネットなどの公衆回線網上に、ある2点間を結ぶ閉じられた仮想的な直結通信回線を確立すること。ネットワーク上に外部から遮断された見えない通り道を作るように見えることからトンネルと呼ばれるようになった。本来通信を行ないたいプロトコルで記述されたパケットを、別のプロトコルのパケットで包んで(カプセル化)送り届けることにより通信を行なう。パケットのカプセル化とその解除はトンネルの両端の機器が自動的に行なうため、トンネルで結ばれた機器同士は途中の通信方式や経路を気にする必要はなく、あたかもトンネルの両端の機器が直結しているように見える。

と、用語辞典にある。MPLSとはトンネリングの一種である、と言えるのだろうか。また、ある書籍ではMPLSは郵便番号にたとえられていた。郵便局の局舎間の中継においては荷札の住所ではなく、郵便番号によって行われる。郵便番号の数は、住所より少ない。住所を束ねたかたまりが郵便番号である。住所を郵便番号に変換する作業は膨大なものになるが、郵便物を投函するものが各自で行えばそれほどの負担ではない。郵便番号から住所への変換は、最終目的地を管轄する郵便局の局舎に届いたものだけだから、この作業もそれほど膨大にはならない。ただし、局舎間の転送には、郵便番号表が必要になる。それを製作して配布して維持していくのは大変だろう。それを解決するのがルーティングではなかったのか?そう、わたしはルーティングをもっと有効に使おう、そのほうが簡単じゃないか、という考えなのである。

これをMPLSに置き換えるとどうだろうか。IP-VPNのような通信網の利用者が、ラベルを設定する。
利用者は始点と終点のラベルを任意に設定し、VPN業者がそのラベルと物理的なルーターとを関連付ける。VPN網間は、ラベルを参照することでルーティングを必要とせずに最終目的地へ高速に転送される。

ここで疑問が生じる。VPN網ないにも複数台のルーターが存在する。通常のTCP/IPの通信であればパケットのIPアドレスを参照して自分が保持しているルーティングテーブルを検索して宛先のネクストホップあるいは出力インタフェースに転送する。もしくは、宛先がわからないという理由で破棄する。MPLSではラベルを付与してそのラベルを参照する。さて、そのラベルにはどのような形式で宛先ルータが記載されているのだろうか?もしかして、転送する経路上のルータに逐一ラベルに対応する宛先を定義していくのだろうか?それしか考えられない。そうしなければ通信は成立しない。

しかしそんなことをしたら障害を迂回するなどの網としての機能がなくなってしまうし、回線も論理的とは言え固定されたものになってしまう。でも、それは非常に手間のかかる作業に思える。それでもいままでのルーティングよりもメリットがあるのだろう。

2005/04/19

ベンダー資格は必要か

IT関連資格については、企業は報奨金を出すなどして奨励するが、現場のエンジニアには不要論も多い。特にベンダー系資格と呼ばれるMS、シスコ、オラクル等の諸資格については、ベンダーの利益にしかならないと、否定的な意見が強い。

これらの資格は免許ではないから取得しないとSEになれないわけではない。資格対策のための参考書や問題集も多数出版されている。試験はコンピュータを使用した選択式が主である。資格制度が始まった頃は難易度も低く、同じ問題が何度も出題されるようなこともあって、受験者が覚えてきた問題を社内で共有するなどのことがおこなわれた。私もそれで合格した。

確かにたいした資格ではなかった。しかし次第に難易度は高くなって、単なる暗記では解けないような問題になった。資格を取るということは、新しい知識を学ぶというよりも、知識に枠を設けて、ある範囲外の知識を切り捨てることを意味する。これは資格試験に限らず、学習ということ全般について言えるかもしれない。

たとえばMCPのWindowsXPであれば、MCPの出題範囲よりも深い知識を持っている人は大勢いるだろう。レジストリのどのキーをどうすればどうなるとか、ドキュメント化されていないショートカットキーとか、その他もろもろの実用的なTIPSを知っている人は、MCP取得者よりも優秀で、有用である。資格不要論者はそのことを言っている。

しかし、そのような実務的な人材というのは、経験だけによって知識と技術を習得しているのである。彼らが有用なエンジニアとなるためには、膨大な時間と不毛な作業が必要だったはずである。それは、たしかに一人の人間としては必要で賞賛されるべきことかもしれないが、職業として、サービスとして技術を提供するという観点では、顧客を利用してエンジニアを育てたということになってしまう。

そして経験だけで積んだ知識には偏りがあり、現状に依存して楽をする発想が根付いてしまう。知識習得には限りが無い。インターネットについて言えば、RFCをすべて丸暗記すれば怖いものなしであろうが、そんなことは不可能である。私はOSPFについてなかなかとっつきにくかったのでRFC2328を翻訳しようとした。それはいい経験にはなったがもしそれを最後までやり遂げるのはとんでもない遠回りとなったであろう。

2005/04/14

CCNAの失効迫る

CCNAに受かって1年半。来年の夏に失効する。ルーターを触る仕事を始めたので、せっかくだから次のステップへ進むことにした。CCNAの次はCCNPというのが当然のようになっているが、試験項目を見るとスイッチングやリモートアクセスなど、縁の無いものがあって乗り気がしない。と、CCIPというのもあって、そこにはQOS、MPLS、BGPと、なんか縁のありそうな科目が並んでいて、こっちならいけそうだ、しめしめ、と思ったら、BSCI以外は日本語未対応だった・・・。まぁ、CISCOを勉強するなら、英語の方が実は早いんじゃないかという気もするが・・・やっぱり英語の参考書を読み、英語の問題を読んでとくのは大変だろうな・・・

さて何を受けるにしても実機操作なしではお話にならない。職場ではCISCOはさわれないし・・・。しかし最低2台、できれば3台ほしい。NAのときは1601と2503と3600?の三台だったが、なんだかピリッとしない組み合わせである。ここらで一丁、2600を1台買って、あと2500シリーズを2台くらい買って、そうなったらラックなんかも買ったりして、そうなるともう、部屋かりてそこマシンルームにしちゃったりして、そうなるともう、そこ人に貸して商売しちゃったりなんかして・・・

なんか、CCNA更新に逃げることも考える。NPって、正直言って自分のキャリアともスキルとも無縁だし。新しいNAはOSPFも範囲に入り、シミュレーション等も難しくなっているらしいし、NA更新できれば上等じゃない?となれば、Ultimate Network Visualizer 4.0とかいうのを買ってごまかすこともできそうだ。金がないのさ、とにかく、今は。5月までは。人生最大の危機といってもいいくらいなんだ!

これはCCNAをとった後から感じていたことなのだが、最近アタマに情報が入ってこない。日経ネットワークの購読を再開したが、興味を惹かれることがほとんどなく、ぱーっと走り読みしてしまう。いや、読んでいない、眺めてるだけだ。JAVAとか.netとかLONGHORNとかLinuxとか、中途半端にかじってきたけど、もう、どれもこれも、意欲が飽和してしまった。アタマがいっぱいとか疲れているとかというのもあるかもしれないが、私はそれよりも、基礎固めをせずに無理やりつっこんだことに原因があると見ている。

30歳をすぎると、人は体力や知力の衰えを口にするようになる。白髪とか、腹が出るとか、結婚するとか、親が死ぬとかそういうことが起こってきて、今までのようにがむしゃらに生きていくことができなくなってくる。そして、もう新しいことに挑むとか新分野を開拓するとか言う意欲を失うようになってくる・・・と。しかしわたしはこれは年齢のせいでは、肉体の衰えのせいではないと考える。

どんなことでも、実現するには時間がかかる。家を建てるにしろ、生物が誕生・成長するにしろ、気候の変化、景気、政治。また音楽も演劇も。絵画は時間ではなく空間を必要とするが、これは時間とおなじような枠組みといえる。たとえば、沼地に家を建てたとしよう。3ヵ月後に傾いたら、これは時間がたったことが原因だろうか?違う。沼地に立てたことが原因である。最近は野球選手でも40歳を超えて現役でいることがめずらしくない。特にメジャーリーグなどでは。30半ばで引退してしまう選手もいる。その違いの主因は節制とトレーニングであろう。30半ばで引退することになったのはトシだからではなく若いころの不摂生のせいだ。

同様のことが、俗に言う体力がなくなったアタマが硬くなった物忘れがひどくなった、という愚痴についてもいえる。サラリーマンの日常生活などというものは、非常に限られた能力しか使わないものである。体力にしても、知識にしても。必要なことは退屈に耐えること、見知らぬ人間にほほえんだり謝ったり仲良くしたりすること、理不尽なこと、納得できないことでも我慢すること、せいぜいそんなことができればよいはずだ。

私の持っている、譲れない職業観は、「生きるためにしかたなく働く」というものである。スーパースターと言われるような人々はこれにはあてはまらない。イチローが打って走って投げていることは、直接には何の経済的な効果を生まないが、コンビニで100円のパンを売ることは非常にかすかではあるが直接の経済効果を生む。ただしイチローのプレイはそれをショーとすることによって莫大な経済効果を生む。それだから彼は何億という年俸を得る。勘違いしてはいけないのは、イチローが高給とりなのは、優秀な選手だからではない。野球選手の場合はほとんどが優秀な選手=高給とりであるが、いわゆる「人気」というものも影響する。職業が生活のために、極端に言えば「いやいや」遂行されるものであるのともうひとつ、その人の行為がすぐれているから大きな報酬を得るわけではない、というのも重要なことである。

またサラリーマンに話を戻すと、給料の増減は個人の能力よりも会社の業績に左右される。さらに、会社の業績も景気や外為などによって大きく左右する。株価と言うものもほとんど根拠のないものである。よいモノを作れば売れるわけでもなく、かえって品質がよすぎると損失になる。商売の目的は相手の幸福ではなく自分の利益であって、相手の、客の幸福を求めるのは自分の利益を願うがためのことにすぎない。お客様の笑顔が何よりの喜びです、というのも、赤字覚悟でサービスします、というのも、最終的には自分が儲けたいがためである。

誤解してほしくないのだが、私はそういう動機が不純であるから商売など罪悪である、と考えているわけではない。ただし、職業が尊いものである、働くことによって人間は高められる、働くことで人間になる、などという考えには賛成できない。働くこと自体は人を消耗させる。ただし、何度もいうがその消耗も自分のためである。自分が食料なり住居なりを獲得せんがために、消耗するのであってそれはやはり利己心なのである。それは扶養家族がいても同じことである。妻や子を養っているからといって、その人の労働の尊さが増すものではない。妻や子を誰かから与えられてそれを養うことを命じられたと言うなら話は別だが。

働くことを正当化するときにもうひとつよく言われるのが、「社会に貢献する」ということであるが、これもまったく嘘である。社会に貢献するよりもむしろ、社会を食って生活するのが労働者である。貢献などと言う考えは毛頭ない。日本人には金儲けを悪徳とする考えが根強く、それが世界に遅れをとっている原因だと言う意見を聞いたことがある。しかしそれも次第に薄れつつある。共産主義のいきづまりによって、人は金儲けに対する罪悪感をほとんど感じなくなった。金儲けはいいことだ、と自分に言い聞かせるようにして毎朝出勤していく。

「資本主義」というのは誰かが発明したものではなく、人間が金儲けをすることの後ろめたさを弁解するための大義名分である。自分の欲望にしたがって行動すれば、それが社会を発展させることになる、社会の発展に貢献しない行為は淘汰されて結局自分が損をすることになるから、人は犯罪も犯さないようになる。しごく単純な論理であるがもちろんこんな単純なことがまかり通るなら苦労はしない。まさに「スイマセンで済んだら警察いらない」である。

スイマセン、話がそれるにも程がありませんか

えっと、BSCIをとれば再認定になります。

そりゃそうだわな。CCNPとらなきゃ駄目なんて、きつすぎるよ。