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2007/06/27

愚痴など

最近、いいことない。なんか、接する人みんなが敵に見える。俺の毎日の自堕落さを見透かされているようだ。もう、とりあえずNPになるしかない。それがすべてではないが、それしかとりあえず道はない。今に見ておれ!

VLANにはいくつか種類があって、とくに利用されいているのがポートVLANとタグLANであろう。しかしCISCOでは、タグVLANという言葉を使わない。トランクという。何種類かのスイッチを使ったがCISCO以外はみなtagという言葉を使っている。中にはVLAN設定をするときには tagged or untaggedの指定が必須のものまであった。なぜ、CISCOではtrunkと呼び、tagという言葉を使わないのかが疑問だった。

switchport mode access がポートVLAN、switchport mode trunk がタグVLANである。たしかに、ポートVLANとtag VLANの違いを考えると、タグの有無ということになる。ではどうしてタグを付けるのか。それは、同一物理回線に、複数のVLANのトラフィックを通すので、それぞれを区別する必要があるからである。それでは、複数のLANのトラフィックが通る回線とはどのような回線であろうか?言い方を変えると、どうしてそんなことをする必要があるのか?複数のLANのトラフィックが通過するのだから、当然その両端には複数のLANが存在する。当然、複数のノード、LANを複数わけているくらいだから、ノード数も多いと考えられる。

最近あまり仕事が楽しくない。忙しくはなく、ヒマで困るくらいなのだが、なんだかとらえどころのないことばかりだからだ。テクニカルなことは2の次3の次。創意工夫などまったく出る幕はなく、地味な繰り返し作業に終始する。今はヒマなのでまだよいが、忙しくなってくるとそのストレスは相当なものとなるだろう。

どんな業界でも多分同じだと思う。先日元調理師からこの業界に転身した若者がいっていた。「料理ではなくて作業になってしまってつまらない」と。多分、ネットワークエンジニアとしての仕事についても、同じようなことを感じているのではないかと思う。少なくとも数年もたてばそうなるときがくるだろう。

純粋に技術を極めることができるのは、研究を職業とするごく一部の人だけだろう。たいていの人は、課長職になるころにはマネジメント的なことしかしなくなってしまう。

最近CCIEを否定するブログを読んだ。CCIEなんかいらないというその強気な態度からするとかなり自信があるのだろう(後で知ったのだがその人はCCIEだった)。CCIEはネットワークエンジニアではないというのだ。神的な立場なのに・・・。今まで生きたCCIEは一人しか見たことがない。ちなみに私よりひとつ年上で、ちょっと変わった人であったが、さすがと思うことはあってもCCIEなんかたいしたことないじゃん、と思うようなことはまったくなかった。

わたしはもともとネットワークではなく、アプリケーションの開発をしていた。「IT業界」といってしまえば同じ業界になるのかもしれない。もっとも「IT業界」などという言葉が使われるようになったのはつい最近である。私はこの呼び方が嫌いだ。かっこよすぎるからである。「情報通信産業」じゃ長いからITにしただけかもしれないが、見かけをかっこよく、軽く見せかけているように思えてならない。

コンピュータプログラマ、システムエンジニアというものにたいして大変な期待をして、大げさに言えば魔術師になれるくらいの期待をしていた。しかし2、3年もするとその実態に失望を感じ始めた。まさに「作業」になってしまうからだ。技術的な探究心とサービス提供ということが相容れないことが多い。

最近ではわたしはあまり技術的なことには深入りしないようにしている。それは面倒くさいとかわからないとからではない。今までの体験から、それが無駄であることを学んだからである。一番大きな体験は、オフコンがPCに取って代わられたことである。その後、仕様やインタフェースが定まらないさまざまなソフトウェアが入り乱れる時代になった。使い方を覚えるころには陳腐化してしまう。それはたとえばdbMAGICだったりVBだったりACCESSだったりMSOfficeだったり。MSOfficeは今でも使っているが最初に使ったWord5.0とWord2000はまったく別のソフトといっていいくらいインタフェースも機能も変わった。NetWareというものもあった。

仕事を始めたてのころ、勉強をしたものである。勉強には2つの方向があって、原理や基礎的なこと、普遍的なことを学ぶのと、実際に機器やソフトの操作を学ぶこととがある。どっちも必要で、わたしはなるべくうわべの操作だけではなく原理から理解しようと心がけていたが、最近はあまり原理を考えることが無意味に思えてきた。

あまりに変化が激しいので、その変化でも不動の原理などというものは、普遍的過ぎて当たり前のことしかなくなってしまうからである。そしてそんな根本的なことをいまさら吟味したり磨きをかけたりするような仕事は、先ほど言ったようにごく一部の技術職しかやらないことなのである。

しかし、ネットワークに関しては、まだ本格的に初めて2年くらいしかたっていないのだが、アプリケーションに比べると、技術の変化が少ないように感じる。最近は慣れてしまったが、ルータのインタフェースはどうしていまだにあんなMS-DOSみたいなものが残っているのか不思議だった。プログラムなら変数とループを使って数行で書けるようなconfigを長々と書いてそれをコピペしたりするのも。

私はF社オフコン→Windows→ネットワークという風に移り歩いてきた。富士通オフコンは、中央集権専制国家のようなものであった。自由は少ないのだが、無駄なことを考える必要がなく、定型的なことをするにはよかった。Windowsは、その専制政治が民衆によって打倒されて出現した民主主義国家のようなものだった。不備は多かったが自由で、可能性が感じられた。次々に新しい機能が装備されていった。ネットワークの世界は、UNIX的な世界である。わたしは1998年くらいに、「インターネットとはUNIXである」と気づいた。UNIXは、共産主義である。なんらかの巨大な権威や前提を否定することで自分の存在意義を示す。

ルーティングの原理、ネットワークの原理、ブロードキャストドメイン、コリジョンドメイン、レイヤー、みんなやってみないと理解できない。原理を話しても100人中100人がポカーンとしている。なんとなくわかるけど、そんなの当たり前じゃないのかな・・・それのどこがすごいのかな・・・。実際やってみて、ああそういうことね。確かにそうだね。こうするとこうなるしああするとああなるね。なるほど。